悪夢の中で、自分は絶対的な弱者だ。 影は足にまとわりつき、手を取り、視界を奪い叫ぶ。 裏切り者、不実な神の使徒よ、我らの命を、心を、魂を如何とする その汚い腕で次は何を犠牲にするつもりだ アクマを?ヒトを?我らを? 影の向こうで男が笑った。 目を覚ませばそこはもう見慣れた木の天井だ。 阿呆らしいことに、それを見ると悪夢から開放されたことに安心する。 男はすぐ傍でこちらの顔をうかがっていたらしい。目があうと、ああ、おきた、と微笑んだ。瞬いて、それからゆっくりと起き上がる。男はテーブルに肘を着いて足を組んでいる。 「…悪趣味」 起きぬけの擦れた声で悪態をつくと男は何が、と笑った。 「人の寝顔をみてるなんて悪趣味。デリカシーないわね」 「デリカシー!」 男は大げさに両手を挙げる。 心外だ! 「俺はこれでも紳士なんだがな」 紳士。目を伏せて聞こえなかったことにした。 男がこのやろ、と笑むのが分かる。 「熱あった方が素直で可愛いなお前」 「うるさい」 まさか、男の声で自分が救われているなんて信じたくない。 自分の手を眺める。汗ばんで気持ちが悪い。 悪夢、永遠に覚めない気すらするあの恐怖 大きく息をついて、手を握り締めた。 ぺたりと床に足を置いて、男と向き合う。男はなに、と小さく小首をかしげて笑んだ。 「…教えて、ここはどこ?」 「逃がさない」 にらみつけた先で、男は酷薄に笑った。 「逃がさない、あきらめろ」 言って、立ち上がる。 発熱してから三日、熱が下がった後も、男はどうしてか朝自分が目覚めるまで傍に寄り添い、それから家を出るようになった。夕になると疲れた体で帰ってきて、文句をたれながらもなんだかんだ作ってやった食事を食べる。相変わらず、昼間何をしているかわからない。自分も外には出ていない、相も変わらず毎日部屋に閉じこもり、男が買ってきた食材で料理する。食べる。どうにかしなくてはいけないと脳は冷静に警告を発しているのに。次第に自分がわからなくなってきた。 「逃がさない」 扉のまえで振り返って、男はもう一度言った。最早口答えするのも面倒で、返事のかわりに窓の外を眺める。今日も、あいも変わらずの曇天だ。 男は無言で部屋を出て行った。パタリ、と空しい音が響く。 うっすらと思う。 私はどうすればいいのだろう。 自分の白い足先を見る。 それから膝の上に置かれた手。 この神の道具。 あの男 唇を指でなぞって、手をきつく握り締めた。 どうすればいいのだろう。 どう、すれば、 この日 男は夕になっても帰ってこなかった。 いつまでたっても、窓の外に男の姿は見えなかった。戸はどんなに見詰めても開かれなかった、階段の軋む音も。ベッドの上に座って、自分は一体何を待っているのだろうと思った。食事は作る気になれなかった。一日、何をしていたわけでもないのに疲労を感じた。 ただ、明け方になっても男は帰ってこなかった、 部屋は静かだった 目覚めてから十一日目。 昼になると雨が降ってきて、傷がずきずきと痛み始めた。雨のせいか、それとも精神的なものなのか、わからなかった。呻き、ベッドの上で悶える。う、う、う 寂しかった 世界の中で独りだ 独り 悪夢はどこまでも追いかけてくる こんな不実な自分を、だれか許してくれる? 懐かしい人々の顔が浮かぶ。 きっと待ってくれているのだろうと思った。彼らの深い愛情に気づけないほど、鈍い人間じゃない。愚かじゃない。けれど、彼らの愛は幸せになるのと同時にとても苦しかった。そんな風に愛されていいのか、わからなかった。彼らが愛しいからこそ。 あの男は不思議だった。不思議で、不可解で、乱されていると感じるのに、どうしてか憎めなかった。とても不安定な瞳をしていると思った。 このままでは自分はどんどん不実になる。 逃げなくてはいけないだろう、この場所から 男の逃がさないと言った笑顔が浮かんだ 逃がさないというのなら、どうして帰ってこないのだろう わからない どうしたらいいのだろう こわい。もうどうしていいかわからない。 滲んだ涙が、痛みのせいかそれとも違う理由のためなのか、わからない。 身体を丸めて傷の痛みをやり過ごしながら、まくらに顔をうずめた。 ひとり そのとき振動が響いた。階段を上る音。 不意に戸が開いた。 枕から顔を上げて戸を眺めると、コートを羽織った男が立っていた。 雨にぬれ乱れた髪の下で、一瞬こちらを食い入るように見てから、にやりと笑う。 「さみしかった?」 驚いて、慌てて身を起こして顔を拭った。楽しそうな男の顔が見えて悔しい。痛いくらいに瞼をこすって、男をにらみつけた。返事を待たずに男はベッドに腰を下ろした。足を折り壁に背中をつけ男から少しでも遠ざかろうとすると、腕を取られる。 「擦ったら腫れるぜ」 長い指が伸びて、瞼をなぞった。温かい。 傷が痛む、けれどそれ以上に胸が。また顔がゆがんで、涙が滲みそうになった。必死にせきとめようと口を硬く引き結んで耐える。男はそんな表情をどうとったのか、唐突に身体を倒された。なに、と思うより早く胸に手を置かれる。驚いた。 「なに考えてんだ阿呆、はな」 せ、と言うより早く、ぐ、と男の手に重みがかかる。肋骨にぐぅと重圧がかかった。軋む肋骨の痛みにとうとう涙がこぼれる。う、う、とうめくと男はため息をついて、流石にまだ治ってないか、と呟いた。当たり前だ。悔しいから痛いとは言わないで男をしたから睨みつけると、困ったように笑った。 唐突に、胸が熱くなる。男の手のひらが瞼を覆ったから何が起こっているかはわからなかった。ただ、まるで内臓をじかに触られているような、違和感を感じたかと思うと、痛みが徐々におさまっていった。思わず大きく息をつく。次に右足にもふれられたのをかんじた。同じように、熱と違和感と、痛みの緩和。左手にも、また。 「…痛いなら素直に言えよ」 ようやく視界が開けて、男の苦笑が目に入った。薬も使わないしさぁ、と微笑む、その顔。滲んでみえる。目尻を涙が伝ったのを、男が指ですくって舐めた。 「ど、して」 昨日帰ってこなかったのか、痛みが治まったのか、治してくれたのか、疑問はけれど、何一つ出てこなかった。悔しかった。確かにこの部屋で、自分は独りだった。 男は笑うと、胸元を探った。手に摘まれているのは、小さな包み。 「お土産買おうと思ったら予想外に遅れてな」 言いながら手元に包みを置く。訝しげに男を見上げると、開けてみろと言われた。促されるままに恐る恐ると包みを開く。中から現れたのは、ガラスでできた球体、その中に小さな人形が佇んでいる置物だった。中に水が詰まっており、ふると細かい砂のようなものがぱっと広がる。ただ単純に、陳腐で、美しかった。思わず、頭の高さまで持ち上げて眺める。昔、まだ幼かった頃、ひとりでなかった頃、露天で見つけとても憧れたのを覚えている。まだ神の使いでなかった頃。 「綺麗だろ?」 男の得意げな声が聞こえて我に返り、思わず憮然と男を睨みつける。男はにやりと微笑んだ。 「昼間…飽きないで済むだろ」 飽きないで、でなく、本当はちがう事が言いたかったのではないかと、どうしてか思った。どうして どんどんわからなくなる、今度は頭痛がする。 不可解だと思うのは、男のこういう、複雑さだ、混沌だ それに乱される自分は愚かだ 辛い。 顔をゆがめて、球体をただ眺めた。 男の手が頬に伸びる。 そうして、顔が傍に寄った。 「なに、すんの…?」 ズズ、と情けなく鼻をすすって尋ねた。 男は我に返ったように何度か瞬きして、それから苦笑する。 「なんだろなぁ」 「…わけわかんない」 「う、ん」 ほんとだな、言いながら男は視線を落とす。男の指先が球体にふれた。 「ノアも…泣ければ良いのにね」 呟けば、男は自嘲のような笑みを浮かべた。 球体は、しゃらりと鳴る。 朝目覚めると、男はすぐ傍にいて、どこか真剣な様子で此方を覗き込んでいた。 男を見上げて囁いた。 「悪夢が止まらないの…」 追いかけてくる。 「私は思い上がっていると思う…?」 男は少し目を見開いて、それから笑った 「神の使徒を名乗る奴なんて、皆思い上がってるさ」 そう、と呟いた自分の声は思いのほか安らかだった。 ああ、おかしくなってしまうかもしれない、否、おかしいのかもしれない、私は
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視界が濁ってしまいそうだ 不実の罪悪感と 孤独感で
(まさか、この男に心を許しそうになるなんて そんな ばかな 愚かな)