影はあいもかわらず足にまとわりつき、手を取り、視界を奪い叫ぶ。
裏切り者、不実な神の使徒よ、我らの命を、心を、魂を如何とする
その汚い腕で次は何を犠牲にするつもりだ
アクマを?ヒトを?我らを?


鼓膜が震える、如何ともしないと泣き叫ぶ
私がいつ自分から神の使徒と名乗った、
私はこんなに醜い人間だと、そう言わせてくれなかったのはお前たちだ
私は醜い 愚かで 利己的で
どうして どうして
どうして

男は笑った

思い上がりじゃないか、エクソシスト








どうしてか、私はそう言って欲しかったのだ
誰かに
はやく、はやく








目覚めて十三日目

どうしてか世界は穏やかだ

窓の外を眺めながら思った。
もうしばらくイノセンスを発動していない、アクマを見ていない

朝出たきり、男はまだ帰ってこない

自分はあの男が憎いのだろうか。どんなに考えても、憎いのとはちがった。

逃げる?ここから?
殺す?あの男を?
人間を?


目を細め、窓枠に頭をぶつけた。かすかな痛み。
手元の球体からしゃらり、と涼しい音がする。人形は天を仰ぎ、ただ座っている。

一昨日痛んだ傷は昨日にはもう少しも軋まなくなっていた。
けれど、ここから逃げ出さなければと思うのに、何故か、動き出せない。
自分はあの男を殺すのか?
出来ないと思う。

それは傷や実力の問題でない気がして、それがとても不快だ。
どうして殺せない?人間だから?

喉元を押さえた体温や、頬に触れたときに感じたぬくもりのせい?
それともあの冷酷で孤独な笑みの?

叫びがまだ鼓膜にこびりついている気がする。
次は何を壊す?




階段の軋む音がする。あの男だ。
ベッドの上に座って扉を見据えた。男ははぁーとため息をついて疲れ切ったという体で入ってきた。

「飯は?」

一体なんのつもり、という質問はもうし飽きた。無言でキッチンの皿を指すと、一瞬目を細めてからああ、今日も男らしい、と弱弱しく微笑む。立ち上がり、男の傍へ寄った。見上げると、男はなに?と微笑んだ。それは、どうしてかとても寂しい。

「教えて欲しいの」

珍しい殊勝な言葉に驚いたのか、男は皿から野菜をつまむ手を止めた。それからゆっくりと笑う。

「何を?」

気味の悪い甘い声で。

「あれから、何日がたってる?ここは、どこ?」

男は肩をすくめた。質問の内容が期待とちがったらしい。口におかずを運び、かすかに顔をしかめてからこちらに向き直った。

「まだわかんない?俺、お前を逃がすつもりはないよ?…いずれ殺さなきゃなんないだろうし」

無駄なこと考えるなって、とまるで傷ついたかのような顔をする。あやすように肩に置かれた手をはらい、ちがう、と首を振った。

「ちがう、逃げるんじゃない、ただ、彼らの弔いがしたい」

男は目を見開いた。

「あんなさびれたところにほうっておきたくない、何日経ってるかわからないけれど、ちゃんと丁寧に弔ってやりたい、」

男は答えない。何ともいえない表情で此方を眺めて、それからふ、と皿に視線を落とした。今日はチンジャオロースを作ったつもりだったのだけど、また火にかけすぎて少し焦げてしまった。男は指を舐める。

「味も男らしいよな」
「弔わせて」

かたくなに言う。男は小さくため息をついた。その態度に腹が立つ、どうしてそんな扱いかねるような顔をする?どうして生かしておく?

「どうして?」

声は思った以上にか細く、弱弱しかった。

「どうして、逃がしも脅しもしないくせに、生かしておくの?」

球体が、しゃらり、と、いう

「どうして…?」

男は目を合わせない。指をなめ、それから、気分だ、と小さく呟いた。

ただの、気まぐれだ

返事はせずに、男を見詰めていた目を伏せる。
手を伸ばし、それから男を蹴り一気に床に引き倒した。後ろ手に持っていた包丁を突きつける。男は少し目を見開いて、それから皮肉げに微笑んだ。

「俺を殺すつもり?」
「…」
「そんなもんじゃ俺は殺せないよ」

男の上に馬乗りになって、ただ首元に凶器を突きつける。男は微笑んで、目を閉じ、体中から力を抜いた。手が震える。

殺す?この男を?
喉を一突きにして、心臓を抉って?

男の心音が伝わる。

包丁を男の喉下に突き刺す代わりに、顔を男の胸に突っ伏した。包丁は床に落ちる。男が不思議そうに目を開けた。喉がヒクリと震えた。男がゆっくりと身を起こす。両手で男の胸元を掴んで男の顔を眺めた。

「あんたって不可解よ」
「またそれか?」

男は笑う。

「ノアってそういうもの?」
「いやぁ…俺は結構変だって言われる方かな」

そう、と呟いて微笑む。男は不思議に思ったようだった。男を見据え、それから、立ち上がりベッドに乗る。窓を開けた。雨が降っている。ここは三階だ、下は石造りの道。え、ちょっと、とかすかに狼狽を滲ませた声を背中に、窓枠に足をかけ、身を投げ出した。風を感じ、それから、確かに腕がつかまれたのを感じる。見上げると、男が珍しく必死な様子で窓から乗り出し、腕を掴んでいた。

「な、に考えてんだよ、お前、死ぬ気かよ」

勘弁してくれよ、と力をこめ、風に揺らされる身体を引き上げようとする。
恐れていた通りのことをするから、どうしてか悲しくなった。どうして、と思う。

「…私が不可解と思うのは」

顔がゆがんだ。

「あんたの、そういうところよ」

男は目を見開く。そして、ひどく辛そうな顔をした。そのまま俯くと、ぐいと身体を引っ張りあげる。がっしりとした男の腕は、案外やすやすと部屋のベッドの上に身体を引き上げた。

「…馬ァ鹿!」

ふん、と嘲笑ってやった。馬鹿な男。殺せばいいのに、殺せば、いいのに。雨に濡れた長い髪が頬にべったりと張り付く。男はまだ右腕を掴んだままだ。ベッドの上に座りこんで俯いている。馬鹿ね、ともう一度言ったら、ようやく、顔を上げた。

「勘弁、してくれよ」

予想以上に辛そうな顔をして、右腕を痛いほどに掴んでいる。

「…ばぁか」

もう一度、もう一度囁くように言うと、弱ったように笑う。

「…どうして、殺さないの…?」

尋ねると、男はようやくと言ったように、わかんねぇ、と呟いた。

「わかんねぇんだ、俺にも」

泣きそうだ、涙がこぼれそうだ、歯止めが利かなくなる。

男の胸を、痛む左腕で思い切り打った。

「どうして…ッ」

俯き、唇を噛む。涙が頬を伝う。

「…殺せないの…っ」

もう、わからない、すべて

「私にはあんたは殺せない…っ」

唇が震えた。

「どうして…?」

「ころせない、もう、なにもころせない、ころしたくない」

「私は、神の使徒なんかじゃない…っ」

歯止めが利かない。決壊したように涙が溢れる、手が震える

人を分け隔てなく愛すことなんて出来ない、守り抜くことも出来ない、

「私はただの人間なの、醜くて小さい、人間なの…っ死にたいと思っても、そんな勇気ないわ、咎を背負って生きていく勇気もない!どうしてあんたは私を殺さないの?生かしておくの?私は何もできない、イノセンスが欲しいっていうなら殺せばいいわ。私の腕から引きずり出せばいい、いずれ殺すなら、今殺せばいい!ねぇ、どうして生かしておくの?!どうして?!」

涙がこぼれた。声が震えて、かすれて、情けないくらいに。
男の胸元を両手で掴んだまま俯いた。唇をかみ締める。

愛してくれる人たちを裏切りたくない けれど、
もう、なにもころしたくない、なにもころしたくない、
自分に、この男は殺せない


人を救えると思っていた、幸せにできると、
自分はこんなに醜い人間だというのに

彼女の叫び















レベル2のアクマだった、人に擬態し生活していた
妻がいた
事情を知っていたはずなのに
アクマを斬った自分に妻は泣き叫んだ、悪魔と罵倒した
そのまま自ら崖から飛び降りた 止めるまもなく



ひとを救えると思っていた
ひとを、喜びで満たすことができると
なんて思い上がり、なんて傲慢、欺瞞



もう どうしていいかわからなかった


神の使徒と皆言った
神に愛された子ども、どうか神のように私達を守ってください 愛してください

でもちがう そんな風に人を分け隔てなく愛すことなんて出来なかった
もし 自分の愛する人と世界の人々どちらを助けると聞かれたら
迷わず前者を選ぶのだろうと思った 利己的な、愚かな、小さな、弱い人間なのだ

孤独だった
世界で独りだとおもった

怖かった 何かを斬るということが
そのはずなのに腕はきちんと、アクマを破壊した
まるで意志とは反対に
人は喜び讃える
神の使徒よ!

そうして、命を投げ出す あっけなく、使徒を守るために

今、この男が殺せないと泣く自分を見たら、彼らはどう思うだろう











「どうしてみんな、しぬの?
それでどうしてわたしがいきているの?」

もうわからないの
か細い声でその場に膝をつく。殺して欲しい、このまま。




震える肩に男の手が置かれた。首に回される。両の手が。上から自分で男の手を押さえた。そのまま、ゆっくりと絞めて、ゆっくりと、じわじわと、苦しみが長続きするように、罰になるように
けれど、男の手は喉元から後ろ頭へと回された。髪が男の長い指へ絡みつく。
そのまま、唇に熱が触れた。一度、更に二度。ついばむように。

「…っ」


どうしようもなかった、世界で独りだった
もうわからなかった なんのために生きていたのか、なんのために生きるのか
口付けが終わると、男に抱きしめられた。きつく
男の手は何故か震えていた。

「俺、相当おかしいな」

苦しげな声が耳元で聞こえる。震える手で男の背中に手を回し、ぎゅうと掴んだ。

「ティ、キ」

涙がティキのシャツを濡らす。ティキは少し驚いたようだった、忘れていると思っていたのかもしれない、名前を。ようやくして、笑みを含んだ、けれど震える声で、愛しい響きで、サヤ、と聞こえた。









瞼に口付けられた
次に額に、頬に、唇に

満たされる気がした
それはたしかに、たしかに、慈悲と、労わりと癒しの唇だった。

「サヤ」

名前を呼ばれるたびに鼓膜が優しく震えた











世界に見捨てられた場所でいいから 口付けて この穢れた腕に





(神の使徒としての重圧に耐えられなくなったヒロイン)
(しかもティキに救われちゃった)
(とうとう止められなくなっちゃったティキ)
(神の使徒なんて肉体的にも精神的にもひどく辛い仕事だろうな、と。本当は普通の女の子なのに)